難病と告知されて明日で1年・・・② 今の心境
①で病名・病状・告知までの動き、告知後の動きを書きました。
②では私たちの今の心境やよかったこと、困ったことなどをつらつらと思い浮かぶままに書いていきます。
夫が参加してる治験についてちょっと説明します。
治験スタートの最初の6か月はランダム試験期間と言って、「サリドマイド+デキサメタゾン(私たちはデカドロンと言ってました)」のグループと「プラセボ(サリドマイドの有効成分を抜いた偽薬)+デキサメタゾン」のグループに分かれてます。
これはどちらに入るかランダムのため患者にはわからないようになってます。
プラセボグループの場合、ランダム試験期間中に悪化した場合はすぐにサリドマイドに移ります。
ランダム試験期間終了後、どちらのグループも「サリドマイド」の投薬が始まります。(長期試験期間と言います)
長期試験期間は1年。
この時ランダム試験期間にあった「デキサメタゾン」はありません。
実質1年半の試験期間になります。
夫は2013年5月からスタートなのであと半年近く試験期間が残ってます。
まず病人本人である夫に質問してみました。
・告知された時どう思った?
「結婚したばっかりなのにどうしようって思った。長生きできないのかな?とも」
(私たちは10年近くの交際期間を経て、両家の両親にせっつかれて結婚したクチなので結婚したのが具合を悪くした3か月ほど前。)
最初にPOEMS症候群かもと言われた2013年2月に病気についていろいろ調べたりした時に「予後不良」の文字を多く見かけたんです。
この予後不良の文字で「長生きできないかも」と思ったようです。
・治験に参加してからどうだった?
「最初の3か月はおっかなびっくりだった」
①でも書きましたが、治験のために入院して退院した直後に足に発疹が出たんです。
薬の拒否反応だったらどうしよう?!そしたら治験に参加できなくなる!
土曜日に出て、日曜に悪化し、二人ともパニックになりました。
日曜ですが病院に電話したほどです。
1日であれほど発疹が広がるとも思わなかったし、人間の体ってたった1日でここまで悪化するもんなんだなと改めて実感しましたもの。
入院中も寝てる間の心拍が遅かったので、自宅に戻ってからも特にデカドロンを服用してた時期は簡易心拍計を身につけて45を切ったらアラームが鳴るように設定してました。
また最初の半年はサリドマイドかプラセボかわからないのですが、サリドマイドだったと仮定した場合、サリドマイドは元々は睡眠薬。
翌日眠気がかなり残るのを同病患者の方から聞いてたのもあり、生活リズムを試行錯誤したことなども含めて、夫にとっては「おっかなびっくり」だったそうです。
・おっかなびっくりから変わったきっかけはあった?
「ある程度自分で体調がよくなってきたなと実感できたのがだいたい治験開始から3か月くらい。その時に「長生きできないかも」から「大丈夫かも」って思えるようになった」
・1年長かった?
「あっというまだった」
・困ったことあった?
「奥さんの心配性」
(すみませんすみませんすみません)
夫はつらい検査をした時(骨髄穿刺や胃カメラ、大腸の内視鏡による下剤がつらかったそうです)も愚痴一つこぼさず、病名が確定するまでの4か月じっと耐えてきました。
医者や看護師にあたることもなく、もちろん私や彼の両親にあたることもありませんでした。
普通だったら4か月も病名がわからなかったら、当り散らすんじゃないかな?とか、医者につめよったりするんじゃないかな?って思うんですね。
(実際彼の両親は2月末に医者に詰め寄ってます)
夫にそのことを聞いたところ、「先生(2013年1月から変わった担当医のこと)のこと、信じてたんだよね」と返ってきたんです。
患者にとって信じられる医者に出会うことってすごく大事で、夫にとってはこのつらい時期に「この先生なら絶対見つけてくれる」って思ったんだそうだ。
おそらく2013年1月の外来での診察の時、毎週毎週いろんな症状が出たのだけど、その時にちゃんと向き合って聞いてくれたこと、入院中もほぼ毎日顔を出していろいろ説明してくれたこと。
そういうことがとても大きかったようです。
また2013年2~3月の主治医についても、「担当医と毎日来てくれて、担当医の説明で足りないところを主治医が説明してくれたから」とも。
このお二人の医師の存在は当時の夫にとってとてもとても大きなものだったそうです。
・転院後について
夫にとって、2013年4月に最初にいた病院を退院し、大学病院へ転院してから、最初はかなり緊張してました。
今までの病院と勝手が違ったのも大きかったと思います。
しかしこちらでも「担当医が毎日説明しに来たり様子見にきたりしてくれたから」とのこと。
「いつも一生懸命説明してくれて、それがとてもありがたかった」とも。
また治験コーディネイターの存在もとても大きく、「何かあったらすぐ対応してくれたのがとても心強いし、だから今もすごく安心できる」と言ってます。
(現在もまだ治験参加中です)
「看護師さんや看護助手さんがいろいろ気遣ってくれたのもありがたかった」とも。
「あとやっぱり入院中に同じ病気の人と同部屋になっていろいろ話したりしたことが大きかった」
2013年5月から入院した時、先に同室に1人、夫の2週間後にもう1人患者さんが入院してきました。
それまでネットを通じて知り合った方しか同病の患者さんと接することがなかったのと、私が知り合った患者さんは女性ばかりだったのもあって、同じ男性の患者さんと知り合えたのは夫にとってとても大きかったそうです。
男性同士だから口に出せる不安などもいろいろ話したりしたそうです。
・いろんな患者さんと知り合ったことについて
最初2013年3月に病気を告知された後、私たちは病気についてネット検索をかけました。
(最初にPOEMS症候群の可能性について医者から言われた時も多少は検索してます)
それこそ夫にとっては得意分野ですし、私もある程度はパソコン使いなので検索しまくりました。
患者数が少ないながらも同病の患者さんが数人blogやホームページを運営してたので、私はそれを片っ端から読んでいきました。
そのうちの何人から、患者ならではのアドバイスをたくさんいただきました。
また私がblogで夫の病気について書いていると同病の患者さんや患者の家族さんからコメントなどを頂いたりすることもあり、夫は私の文は読まないのにコメントにはしっかり目を通してました。(苦笑)
コメントを頂いて直接お会いしたおがさんとは、同じ治療方法で部分寛解まで回復されたことに希望が持てたとも。
一般的には患者数がとても少ない病気で、なかなかお知り合いになる機会もないかもしれない病気だったけども、病院でお知り合いになれたり、ネットを通じてお知り合いになれたりしたので、わからないことを教えて頂いたり、不安を共有できたりで「心強い」と思ってるそうです。
私たちは医者や看護師やいろんな人に助けられてるね?って聞いたら「うん」と。
最初の病院、転院した大学病院、同病の患者さんやご家族、たくさんの人たちのおかげで無事1年過ごせたんだね。
本当にありがたい。
夫はそう締めくくりました。
私にとっては2012年から告知までは、いろんなことが同時進行中でした。
どちらかといえば告知されるまでのほうが自分にとってはきつかったかもしれません。
一番の問題は実はこの時期マンション購入の契約をしてて、完成したら引っ越し→ローン開始となる予定でした。
2013年3月完成予定だったので、入籍してから完成までのその間敷金礼金払って賃貸物件借りるのもなんだかあほらしくて、私の実家は部屋が余ってたのと夫の会社からわりと近かったのもあって、夫がこちらに引っ越してきました。
ところが同居後3か月で具合が悪くなり入院となりました。
2013年2月末~3月はマンションの内覧、おかしいところのチェックなどをせねばならず、また病気になったからローンに問題が出てしまい、病院とマンションのことでいっぱいいっぱいになってます。
当時の私は義実家への対応、病院、マンションの対応、銀行の対応、それらを同時進行せねばならず、また2月に夫の病気がPOEMS症候群という神経症状が出る病気の可能性を言及された時点で、ホームヘルパーの資格の学校に通う決意をしてます。
(同病患者さんによると手足が動かなくなるほど進行してしまう可能性もあったため)
介護とまではいきませんが、必要になるかもしれない可能性もあったので、できそうなことは手あたり次第勉強しておこうかと。
今思えばむしろリハビリとかの勉強のほうが理に適ってたような気もしますが、当時はリハビリについては思い浮かびませんでした。(苦笑)
3月中ごろ過ぎにマンションの購入を取りやめました。
その直後告知となり、告知後は同時進行がなくなった分、病院と学校と義実家の対応に終始できるようになりました。
とは言っても、治療を開始するまでも開始後もいろいろ山あり谷ありで大変なことは大変だったと思います。
しかし「人間は忘れる生き物」なおかげで、だんだんいろんなことを忘れて行ってます。
だから私はおかしくなることもなく生きていけてるのかなとも思ってます。
1年を迎える(?)にあたり、去年の3月21日告知された時のblogを読んでみました。
当時のショックさは忘れてないし、当時最初に入院した病院の担当医に言われた言葉も忘れてない。
とは言っても細かい小さな出来事は結構忘れはじめてきてる。(いつ発疹が出たとか)
多分だけど、大事なことは忘れなくて、それほど大事じゃないことは忘れていくようにできてるんじゃないかな?って思うので、大事なこと、忘れてはいけないことをしっかり覚えておけばそれでいいのかなとも思う。
・病気と向き合うということ。
この病気に限らず、どんな病気でも病気に向き合い受け入れていくことはすごく難しいことかもしれない。
私は20代のほとんどを母のがんの闘病生活とともに過ごしてきて、何度かの入退院を繰り返しながらも病気と向き合い受入れ闘うことの大事さを母から学んだ。
私たちはこの病気を、多分比較的早く受け止められたように思う。
多分当時も書いたと思うけど、前をむいて頑張ろうと思いながらも後ろを見てどうしようって思ったりすることを確かに繰り返したけど、3歩進んで2歩下がるながらも前に進んでいきはじめた。
1人だったらできなかったかもしれない。
夫がいたからこそ私もできたのかもしれないと思う。
今は病気だから気をつけねばいけないこと、できないことがあること、そういうことも受け入れて、その中でも二人で楽しく生きていくことを考えてる。
・わりと困ること
おそらくどんな病気になった人でも1度は経験するだろうこと。
「これを飲めばなおりますよ」の類。
幸いなことに宗教とサプリメントと水の類は勧めてくれるなという態度が伝わるせいか、あまりこの類に遭遇はしませんでした。
あと壺とか?
とは言っても0ではありません。
「これやればなおるよ」とか「これすればなおるよ」と言われると、かなり複雑な気持ちになります。
心配して勧めてくれるんでしょうし、その善意はありがたいのです。
しかし私は医学を信じてるし、根拠やデータがないのものは正直信じていません。
私は専門の医者を信じますし、そもそもPOEMS症候群の発症原因さえわからないのに何をもってそう言えるのかと。
ある意味責任がないから言える言葉なのかなとも思う。
論理的に説明してもらいたいのですが、私が納得できるような説明は今のところされたことがないので、やっぱり病院を信じてます。
薬が毒だということもたまに言われます。
ある意味ではそれは正しいことでしょう。
でも放置したら夫は死んでしまう可能性が高い。
私は毒でも改善する可能性が高いならば喜んでその毒で治療します。
私は夫と楽しく老後を迎えたいし、夫がいない生活はもう考えられない。
少しでも治るあるいは改善する、寛解に向かう可能性が高いものを選ぶのが人間の心理なのではないかなと。
私はそう考えてます。
ただ幸いなことに他の方から聞いたりするより、こういう類の出来事に遭遇する率は低いようです。
たまにな分、困るのかもしれません。
・日常生活について
現在夫は特に大きな問題もなく日常生活を送れてます。
歩くこと、階段の上り下り、自転車は乗ってませんが多分問題なく乗れると思います。
4,5kmくらいまでならウォーキングもできます。
さすがにランニングまではしたことありませんが、まぁしなくても生きていけるものなのであえて試そうとは思ってません。(苦笑)
車の運転も問題なくできてます。
食欲も旺盛で、外出も可能です。
ただし1年中マスクをつけてます。
2013年8月、おそらく私の風邪がうつったせいで高熱を出して入院する騒ぎになりました。
健康な人にとってはただの風邪でも夫にうつるととんでもないことになるということもよくわかりました。
以後手洗いうがいは特に徹底してますし、ちょっとおかしいなと思ったら早めに病院に行くようにしてます。
秋の終わりごろインフルエンザの予防接種も受けました。
・疲れやすいです。
人ごみや長時間の外出は特に疲れが出るので、なるべく仕事が休みな週末はじっくり寝て疲労回復に努めています。
外出中もこまめに座って休憩することは多いです。
・お酒はサリドマイドを服用中につき飲めません。
本人は特にお酒好きではないのですが、飲めないとなるとやはり飲みたくなる時はあるようです。
飲み会などの場ではソフトドリンクやウーロン茶などで過ごしてますが、本人の体調を優先するように言ってはいますが人付き合いなどは極力参加するように言ってます。
・現在のところ、医師から特別な食事制限は指導されてません。
なので外食も好きにできています。
ただ家での食事はなるべく減塩傾向で作るように心がけてます。
2013年4月の最初の病院の退院の時にたんぱく50g食塩6gの栄養指導を受けてますが、現在はたんぱく質は特に制限はせず、食塩はなるべく6~8程度に抑えるようにしてます。
尿酸値があがってた時はプリン体に注意して食事を作ってましたが、現在のところ尿酸値は正常範囲に戻ってるのでプリン体にも特に注意はしてません。
・睡眠サイクルは22時半~6時で平日は過ごしてます。
サリドマイドを飲む時間は8時半~9時に飲むように心がけてますが、仕事の都合でその時間までに飲むことができないことも多いです。
また残業などで帰宅が遅くなり22時半に寝ることができないことも多々あります。
薬を飲む時間を多少なりとも早くしないと翌朝に眠気が残ってなかなか起きられないこともあるので、飲むタイミングは特に注意が必要です。
・病院を強くすすめたきっかけ
夫は2012年11月頭に風邪を引きました。
それが多少なりともよくはなったのですが、残り火がぐずぐずとくすぶってもいました。
病院に行くように最初に言った時は「止まらない咳」が原因だったのですが、本人は「風邪を引くと咳だけ残る」と言い続けてたので、病院に行くことはしませんでした。
実際いつも咳だけ残ってたので夫のいうことに反論はしなかったのです、その時は。
私が強く病院をすすめた理由は実は別にあります。
「におい」がきっかけでした。
私の鼻はにおいに敏感で、最初の数日は何も言いませんでした。
体臭が変わってることは。
夫の名誉のために書きますが、夫は別に臭くありません。
どんな人にも体臭があるので、そのことを言ってます。
私は夫のにおいをくんかくんかかぎとる習慣があるのですが、においが戻らないので「病院に行ったほうがいい」と言い始めました。
そうこうするうちに具合が悪くなり、夫もおとなしく病院に行きました。
ちなみに最初の病院の消化器内科でにおいのことを話しましたが華麗にスルーされました。(苦笑)
・この1年
あっというまに過ぎていきました。
何か起こってよくなって、また何か起こってよくなってを繰り返してきたので。
無我夢中にあれこれしてたら1年が過ぎたなと。
自分たちが正しい選択ができてるか、時々不安になることもあります。
治験終了後に「よかった、この選択はあってたんだ」と思えることを信じてるのが今の心境です。
私たちもまだまだ頑張らなくちゃって気持ちになります。
まだまだ治療は続きます。
私たちはまだまだ頑張ります。
いつかここで「やったー!寛解になったー!」って書ける日が来ることを願ってます。
って言うかこんな長文書いたの初めてだわ。
読んだ方、お疲れ様でした。m(_ _)m
今まで、ご主人も、支えている奥さまであるブログの主さまも、本当によく頑張ってこられましたね。
原因がわからない、病名がわからない、これがどれほどに辛いことなのか…….。
父を見てきたからこそ、お気持ちお察し致します。
世の中厳しいもので、父は度々の検査のため仕事を休んだりすることが多く、結局は会社側から退職を進められました。当時は仕方のないことだったんでしょうね。
今は色々な制度も充実してますし、会社の雇用と言う面もでもサポートが整ってきています。
病院の相談室的役割もありますからね。
ぜひ、色々な制度を活用したり、相談して、安心して治療が受けられますよう祈っております。
そして、もっともっと病気に対する研究が進んでほしい!そう願っております。
いつもありがとうございます。m(_ _)m
そうなんですよね、病名がわからない状態って本当にきついと思います。
お父様の時代は今ほど法制度が整備されてなかったのかもしれません。
今の時代でも仕事をやめざるをえない人もたくさんいると思いますが、仕事場でも理解して頂いてます。
月1に必ず通院のために休みをとらねばならないので、ご迷惑をおかけしてるとは思うのですけど。
こういうサポート面がなかったら、今頃私もこんなふうにblogに書いてる余裕はきっとなかったと思います。
できることをしっかりやって、だけど無理をしないように、それだけは夫に気をつけてもらってます。
仕事、一生懸命しちゃうタイプなので、体調が悪くても無理してたんですね、病気になる前は。
今はしっかり体調を考えながら折り合いをつけるようにしてますが、3月はどうしてもそうは言ってられないほど激務になるので、私は私なりに夫のためにできることを一生懸命考えてます。
ありがたいことに治療は順調のようなので、そのまま穏やかに過ごせるといいなぁと願ってます。
本当、病気の研究どんどん進んでほしいですね。
自分もPOEMS症候群です。
移植も終わって今は回復を待つばかりです。
ちーまる様
コメントありがとうございました。
移植が終わったとのことですが、お疲れさまでした。
回復が待ち遠しいですね。
お体には気をつけてくださいね。